2月でございます。

なので我が家の季節モノディスプレイはこうなっております。電飾はなし。もうちょっと何とかしたいところですが、如何せん節分期間は短い。
でも短くないのが『恵方巻き』でして。何か年末から予約受付のポスターを見た記憶があります。
(※以下平成7年2月1日記事の再録です)
『もともとは関西の慣習で、10年前なら関東で知っている人はほとんどいなかった(iza)』とよく言われていますが、私は30年以上も前に函館か室蘭のスーパーで『恵方を向いてのり巻き丸かぶり』ってポスター見ています。ちなみに、江別の実家ではやりませんでした。
“Wikipedia”によりますと、『豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が、偶々節分の前日に巻き寿司のような物を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたという故事を元にしているという説もある』なんて記述もあります。
しかしこれは、かな~り怪しい。板海苔が発明されたのは江戸中期だって基本的なこともさることながら。あのご時世の武士ってのはメチャクチャ質素な生活を送っていたはず。「今朝は蓼の塩漬けで飯を食ったが美味かった」と言ったら「蓼は贅沢だ」ってたしなめられたくらいですから。武士たるもの、汁と飯で充分であるってコトですな。
出陣にあたっての祝いの膳だって、“打ち鮑・勝栗・昆布”たったこれだけ。『打ち勝ってよろこぶ』って縁起担ぎだそうです。で、戦勝祝いの膳も乗ってるモノは同じだそうだ。ただし順番が変わって“勝栗・打ち鮑・昆布”今度は『勝って打ちよろこぶ』となるんだそうな。
そんなこんなで……、どうも戦国時代起源ってのは考えにくいです。
お次は……。『江戸時代末期から明治時代初期にかけて、大阪・船場の商人による商売繁盛の祈願事として始まったといわれる』ですか。恵方巻きの記事を書く人のほとんどが、この説を採り上げていらっしゃいます。
時代は確かにのり巻き発明の頃と合ってますな。しかしこれ、果たして大阪商人が見たこともない江戸の食べ物に飛びつくかどうか甚だ疑問です。何せ、寿司なら大阪の押し寿司の方がはるかに歴史が長い。しかも長いままのものを手に持って囓って食べるなんて、そんな江戸式の乱暴な真似をしたがるかどうか。非常に根拠として弱いですねぇ……。
しかし『食べている間にしゃべってはいけない』そうですが、太巻きを丸々一本食べる間無言ってのはなかなか苦しいと思います。その逆に『ニコニコ笑顔を浮かべる』ってのはもっと苦痛だぞ。第一それじゃ、のり巻きリバースしちまうだろ
それで……。何でも上方落語の中で、舞妓さんに長いままののり巻きを食べさせる下りがあるそうです。“遊山船”というお話しですが、ちょっと引用してみましょう。
「昔は夏の遊びといえば、東京は両国の川びらき、京都は鴨川の夕涼み、そして大阪は大川の涼みが代表的だったようです。
ウマの合いました二人づれが難波橋の上へ夕涼みにやってまいりますと、花火が上がり、夜店の売り声であたりはまことににぎやかです。橋の下では屋形舟に乗った大尽が芸者をあげ、卵の巻き焼き、鰻の蒲焼きなどを食べ、舞妓には長いままの巻き寿司を「尺八食い」させて楽しんでおります……」
この『尺八食い』ってのがソレですな。舞妓に行儀の悪いことをさせて、恥じらいながら悪戦苦闘する様を見て楽しむ趣向なのでしょうな。
時代がはっきりしておりませんが、江戸末期ってところでしょうか。庶民のリアルな生活をネタにするのが落語ですから、大阪で“のり巻き”が普及していたことは間違いないようですね。しかしこれが直ちに『恵方巻き』に結びつくかと言うと、ちょっと心許ない。お大尽遊びが商売繁盛の祈願ごとになる理由がイマイチ見えません。このネタはちょいと脇へ置いて、時代を先に進んでみましょう。
時代は下って大正時代。どこで拾ったのか忘れましたが、こんな一文が……。
「ところで近年流行の「恵方巻」は、大正初期の大阪花柳界で節分の時期にお新香をまいた海苔巻きを恵方に向かって食べる風習が、昭和40年代後半の大阪で一般化したものだそうです」(小澤富夫(元玉川学園女子短期大学教授):江戸学事始、江戸学担当講師)
ほお。この『昭和40年代後半の大阪で一般化したもの』ってのが、私が北海道で見た『のり巻き丸かぶり』のポスターと同じ頃です。これは興味深い。
で、もちょっと調べるとこんな文を見つけた。
大正の初め、大阪花街でお新香の漬けかかる節分の時期にお新香を巻いた海苔巻を恵方に向かって食べるという風習がありました。(「恵方と寿司屋」より)
そう言えば、海苔ってのも冬に採る海草だったよな……。これも調べて……。
海苔は11月頃から摘み取りが始まり、3月中旬(ごく一部の産地では4月中旬)まで続きます。11月頃、各産地で一番最初に摘み採られた海苔は「新海苔」と呼ばれ、やわらかく、香り高い風味が特徴です。(海苔の基礎口座)
ふんふん、なるほど。何となく見えてきたぞ……。節分の頃、漬かったばかりのお新香を新のりで巻いて食べるってのが、大阪花街のお楽しみだったってコトでしょうか。江戸時代から続いていたのか、それとも大正に入ってからのことなのか調べ切れませんが、ちょいと想像を働かせてみましょうか。では池波正太郎風で……。
おたまの腹が、小さな音を立てた。
夕方も近いという時間なのに、座敷が続いて満足にお昼をする時間もなかったのだ。客は人好きのする旦那ではあるが、おたまの腹の具合までは判ろうはずもない。
旦那が厠に立ったところで、おたまはこの時とばかりに台所に走り、居合わせた小僧に頼んでのり巻きを作らせた。と言っても、簀の子で巻くような手間などかけられるはずもない。旦那が厠から出てきたら、手水を差し出さねばならないのだ。
「それそれ、新香だけでいいから。早う早う」
おたまの焦りが小僧の手元をあぶなっかしくさせる。
「ああもう、お貸し」
しゃもじを引ったくるようにして素早く「のり」で飯と新香を包み、ひと口囓り取りながら、かなり慌てて廊下を小走りに戻った。
厠の扉が見えたところで、それが開くのが目に入った。おたまは慌てて口の中のものを飲み下し。残りを袂に隠した。
何事もなかったかのように、旦那の手を柄杓の水で清め、手ぬぐいを差し出した。そのとき、どうした加減か、袂から食べかけののり巻きが「ぼとり」と板の上に落ちてしまった。
旦那は怪訝そうにそれを見下ろし、次いでおたまを見やった。おたま、もはや顔が真っ赤に染まっている。
「これは……」
「これは……。これは、願掛けでおます」
とっさに思いつきが口を滑って出た。
「節分に……。あの、長いまんまののり巻きを。願掛けて食べますと、願いが叶う言われとります」
「ほお?。そらまたけったいな願掛けやのぉ」
「願掛け言うても、花街の中だけですさかい、誰も知らはりません」
「おたまは、何願かけたんや?」
「そらもちろん。段さんが、この先ずっと来てくれますように」
「ほうそうか?、ほな私もあやからせてもらおうか。私にもひとつ作っておくれ」
「はいはい。ほなお部屋に戻りましょ」
後日、この『長いのり巻き』が旦那衆の中に口づてで広まって行き。ついには大阪商人の願掛け行事となってしまうのだが、それはおたまのあずかり知らぬことである。(※大阪弁はデタラメです)
それで……。
「おお。新香に、新海苔かいな……。こら悪くないわ」
旦那と差し向かいで食べようとしたものの、照れ隠しの出まかせをすっかり信用して長いままの「のり巻き」をくわえている旦那の姿がどうにも可笑しくてたまらない。
「あの……、旦那……」
笑いをこらえておたまが言った。
「それは、あっちの方を向いて食べなあきまへん」
「何でや?」
笑ってしまいそうなので、何とか背を向けさせたいところなのだ。
「願かけるには、あっちが『ええ方』ですさかいに……」
「なるほど。こっちが『ええ方』か……」
後日、この『長いのり巻き』が旦那衆の間で『ええ方巻き』と呼ばれ、ついには『恵方巻き』と呼ばれるに至ることは、おたまのあずかり知らぬことである。(※大阪弁はデタラメであることをお断りいたします)
恵方巻きの起源について、大阪船場の商人が始めたってのと同じくらい登場するのが“大阪海苔問屋協同組合が作製したポスターを寿司屋が共同で店頭に貼り出し、海苔を使用する巻き寿司販促キャンペーンとして広められた”ってエピソード。
海苔問屋の陰謀って説ですが、これは私が経験した『丸かぶり』の時期ですから、この時点で発明されたワケではない。
さて。この大正時代には見られていた『尺八食い』なる風習、一度廃れてしまうわけですが。オールアバウトでは1932年に大阪鮓商組合が「節分の日に丸かぶり」ってキャンペーンを打ったと記されております。
ふむ……。1932年と言えば満州国が建国され、世界がいよいよきな臭くなってきた頃でございます。
それで、この頃になってまたのり巻きが引っ張り出されるってのは、『尺八食い』が完全に廃れきってはいなかった証拠だと思ったりするのですな。日中戦争へと続く満州事変のまっただ中、関東軍はハルビン攻略中です。この時期、すでに陸軍の偵察機やら小型の爆撃機なんかが飛んでおりまして。

こんなモノ(三菱重工業製九二式偵察機)でしたけどね、翼の上に載っているのは機関銃じゃなくてたぶんガンカメラ。これでも敵地奥深くまで行って写真撮ってくるから何時間も飛んだりする。当然航空弁当を持たされています。
これが太平洋戦争まで変わらず『のり巻き』だったのですな。やれやれ、やっとここまでたどり着いたぞ。しかし、航空弁当のこと書きたくてこれだけダラダラ書いていたのか?
歩兵はカチカチになった飯やカンパン食べていましたが、航空兵はそれに比べりゃはるかに良いモノ食べてました。損耗率高いから。それに、飛行手袋してたらカンパンなんて食べられないし。
航空兵が、飛行機空輸の空き時間を利用して花街に遊びにやってくる。大阪には昔、軍用の飛行場が2カ所もありました。たぶんひとつは現在の伊丹なんだろな。
軍の飛行場に納入された飛行機を博多まで飛ばして、そこから船に乗って上海へ。そのまんま戦地へ飛ぶなんてパイロットがいたのかも知れません。ところで私のグーグルアース、何で大戦中の米軍潜水艦の戦没地点が出るんだ? 登録した覚えがないのだが……。どうせなら伊号とか呂号の戦没地点も出してくれ。
で、また。空想のり巻き小説。今日は誰風だかわからない。
時代は過ぎても花街の風情は変わらない。強いて言えば、ランプや行灯が電灯に替わった程度だろうか。それですら、消して床に入ってしまえば昔とまったく変わりはしない。
お多栄は酒を運び、小柄ながらも逞しい軍人に酌をした。
「軍人さん。これから中国いかはりますの?」
「明日、ここの飛行場を立って、博多まで飛ぶのさ。そこからは船だ」
「あれまあ。ずっと中国まで飛ぶんやおまへんの?」
軍人は笑った。笑顔が、まだどことなく子供っぽさを感じさせる。
「対馬あたりまでは飛べるかも知らんが、海の上では方向が判らん。それに、海に降りちまったら俺は泳げん」
軍人は杯を干し、お多恵に手渡した。
「もう、行かはしましたの? 中国」
「先週、帰ってきたばかりさ」
お多恵は注がれた杯を少し掲げて、唇をつけた。
「広いんだ。ものすごく広い。何時間飛んでも地平線ばかりなんだよ」
軍人の眼が、障子窓を通して、はるか遠くを見やった。
「ずーっと飛んでると。戦争やってることを忘れて。俺と飛行士とふたり、ただあてもなく旅をしているような気がしてくるんだ」
一瞬その眼に惹きこまれそうになって、お多恵は慌てて杯を干し、軍人の手に返した。
「そないに、何もあらしまへんの?」
「敵はいるさ。かならずどこかにね。うっかりしているとクリークの陰に隠れてた兵隊が一斉に撃ってきたりする。だからね……」
軍人は注がれた酒を一口のみ、照れたような笑顔を浮かべた。
「飛行士とふたり、航空弁当を半分残しておくのさ。長いまんまの、のり巻きをね。帰りに食べるのだから絶対墜落したりしないぞってね……」
翌朝、その軍人を見送ると。お多恵は台所に頼んで、長いままの『のり巻き』を作ってもらった。部屋で正座し、飛行場の方を向いてそれを一口かじった。
(ご無事で、またお帰りなはれ……)
ってな具合に。江戸で産まれたモノながら、大阪花街の中で様々な想いと共に連綿と受け継がれてきたのが『のり巻き丸かぶり』だってことにしておくのが、風情があって良いのではないかと思うのですが。
これ叩き直して小説一本書けるな……。
「コンビニが宣伝してるから」って食べるのではあまりにも主体性ってモノがございませんでしょ? 念のために言っておきますが、恵方巻きにはダイエット効果はありませんよ。
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