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2010年7月15日 (木)

千年どころじゃない都

 藤森神社のにゃんこ達とたっぷり遊んで。

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 しかしこちら、日本でも屈指の強力な怨霊三座(※親王おふたりに、淳仁天皇も祀られているという説がある)をお祀りしているとは思えないほど長閑な場所です。そして諸説ある由緒がこちらの縁起略記によれば『神功皇后が新羅より凱旋し給わった後深草藤森の地を神在清地として大旗と兵具を納めた塚を造りし給うたのが当社の起こりである』のが203年。

 伏見に遷座したことには触れておりません。当然か……。でも『旗塚』を当社発祥の地であると書いちゃっている以上、「1800年間ず〜っとここに在った」ことになる。

 また解らなくなってきた。調べれば調べるほど謎が深まる、さすが京都。洛外だって手を抜いていません。

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 で、一度伏見の方に下りて地形を見る。凄いなこれ。きっとあの柵も江戸時代に置かれたに違いない。

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 昔の市電です。高校の修学旅行で来たときには、確か7条通りをこれが走っていました。「7条は『しちじょう』と言わないと通じないよ」と言われていましたが、そんなことはなかった。

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 稲荷山大倉山から伏見深草に至る土地は、ゆるやかな傾斜になっています。建物の基礎部分が写真の向こう側に行くにつれて高くなっています。

 それがどうしたのかと言いますと、この一帯の開発の歴史と荷田氏と秦氏の力関係に繋がるんだな。余計なこともたくさん調べないと見えてこない事実も多い。

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 何だかんだで2時間は歩き回って、今度は東福寺に移動。でも東福寺ではなく山を登り始める。泉涌寺です。ここにも小さいけど、でかい謎があります。

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 山にはいると体感温度が一気に下がります。ざくざく進みます。泉涌寺に入ると拝観料取られちゃうので外から眺めるだけにして。谷へ降ります。

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 善能寺です。住職さんのいない小さなお寺ですが、このお寺にまつわる謎がとんでもなく大きい。

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 この本堂は祥空殿といいまして、1971年に函館で墜落したYS-11ばんだい号の遺族が寄進したものです。つまり京都基準で言えば昨日一昨日のものです。

 しかし歴史を辿りますと、1551年に後奈良天皇の命で八条房門猪熊にありました『二階堂観音』ってのがここに移されたことになっております。それまでここには安楽光院という寺が建っていたそうなのですが、そっちはどこに行ったのか行き先不明。

 その『二階堂観音』は、弘法大師が東寺を建てたばかりの時に、門前に稲荷の神様がおいでになったのでお住まいいただいたところだそうです。古地図を見ますと、梅小路公園が平清盛さんのお屋敷だった頃に『二階堂稲荷』として描かれている。場所もいろいろな記述と合致しているから間違いない。

 解らないのは、応仁の乱を始めとしてその辺は何度も何度も焼けているんだな。古地図でも1101年を最後に『二階堂稲荷』は存在を確認できない。その近所にあった戒光寺もやっぱり焼けて、一時は一条戻り橋付近に仮設されていた。地図を見たらそのすぐ近所に「安倍晴明」と書かれた屋敷もあった。

 何が謎かと言いますと。「1101年までしか存在していない二階堂観音を1551年にどこからどうやって移したのか。その『二階堂』とは何であったのか?」

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 そしてもうひとつ頭が痛い謎。『日本最古 稲荷神石社』です。大きい方。小さい方も稲荷社で、これも謎。

 弘法大師が刻んだ稲荷木像がご神体らしいです。これが816年に大師が紀州田辺で会った稲荷神のお姿らしいのですが、不思議なことにその稲荷神も大師の像を刻んだそうです。  

 これが何か腑に落ちない。事実かどうか確かめるすべもないけど。何で神様が大師の像を刻むのだ? 何のために? この点で何か荷田氏と秦氏の関係と被ってくるような気がして仕方がない。

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